翌日、サダルの情報を元に我々は裏手の沼に行った。ヒメは宿に置いていくべきだと思ったが、そう彼女に告げるほうが酷ではないかと思った。私としては彼女を傷つけないためだが、彼女としては自分が足手まといになっていると暗に明示されているように感じてしまうのではないかと思ったのだ。 しかし、今までの道のりを思い出せば彼女はきっと大丈夫だろう。我々を引っ張っていくとは行かないまでも、遅れをとることはなかった。もちろんそれには彼女も相当努力をしているのだろうが、彼女はそれを望んでいる。 背の高い草に囲まれたその沼は波一つ立っておらず、静かなものだった。乾いた風が無機質な音を立てて草を揺らし、通り過ぎていく。 ここに村人の言う神が潜んでいるのだろうか。 サダルが念入りに沼の周囲を見て回ったが首を傾げるばかりだった。 「特に妙なところは感じませんね。昼間には現れないとか」 「ふ……ん。仕方がない。待つしかないな」 待つ場所を探そうと、目を走らせたときだった。 茂みが微かに動いた。私は咄嗟に草薙の剣を構えた。だが、無駄だった。晒された皮膚に熱を感じたと思ったら、既に我々は悠然と燃え上がる炎に取り囲まれていた。 「これは……!」 「オウス!あいつ、宿の人間だ!」 サルメが叫んだ。丈の長い草は火を高く燃え上がらせる。その間からまばらに人が駆けていくのが見えた。 私は小さく舌打ちした。 「嵌められた……ってことか」 「オウス!とにかくこの火を消さなければ……」 炎は更に高く、広がっていく。 火を消すには、水だ。水ならすぐそばに大量にある。だが、どうやってこの水を使う?その術がない。 最後には沼に飛び込む羽目になるだろうか。にごって底も見えないこの沼にはまた別の恐怖があるが、いざとなれば仕方がない。 サルメもサダルも、息遣いを荒くしてこの状況を打破する術を考えていた。どこか火の弱いところから逃れられないか。しかし我々を取り囲む火はますます膨れ上がり、段々に我々を追い詰めていた。むき出しの頬と手の甲が熱い。そのとき、私はヒメが一人俯いているのを見た。 「ヒメ、大丈夫です。必ず逃れられる。今までも我々は危機を潜り抜けてきた」 私はヒメが恐れているのかと思ったのだ。だが違った。 顔を上げたヒメは、険しく眉を寄せているものの、恐れはなかった。黒い瞳を大きく見開き、ヒメは私に向き直った。 「オウス。ヤマトヒメからいただいたものは?」 「この剣のことですか」 「もう一つ、あったでしょう」 もう一つ……。 そうだ、剣と一緒に、小さな袋を授かった。腰に巻いた剣帯の間に差し込んだ、その袋を私は手に取った。それはずしりと重い。 「何か危ないことがあれば、その袋を開けなさいと……ヤマトヒメはおっしゃっていた」 「オウス。今がそのときです」 ヒメがすがるような瞳で私を見る。サルメとサダルも、そんな私たちを緊迫した雰囲気の中見つめていた。 私は汗ばむ手で袋を開けた。 重かったそれの正体は、火打石。 ヒメは口元を押さえた。その瞳は落胆に歪んだ。サルメとサダルも同じだった。 炎に囲まれたこの状況で、火打石。つまり、火を熾せ、と。 我々はしばし呆然としていた。しかしそんなにのんびりしていられる時間はない。 何かあるはずだ。この火打石を使ってどうにかこの状況を変えられるはずなのだ。いや、変えなければならない。 熱さに頭がぼんやりする。私は右手で顔の半分を押さえた。右半身が異様に熱い。風の所為だ。風が強くなっている。 私は剣をかざして駆け出した。サダルが私を呼ぶ声がしたが私は止まらなかった。 風下に立ち、周囲の草をなぎ払う。間髪いれず火打石を打ち鳴らした。宙にとんだ草の葉に火がつき、空間が燃え上がる。 途端に風が大きくなった。私が放った炎は鳥が舞うようにその風に乗って、我々を取り囲む火の一端にぶつかり、打ち消した。 「オウス!やった!」 「サルメ、サダル!ヒメを!」 躊躇している時間はない。私は後方のヒメを二人に任せて草薙の剣を振り回し、炎の勢いを弱めながら焼け焦げて黒くなった草を踏みしめて走った。 後ろに三人の足音を聞きながら、炎の熱も届かない場所まで走り、私はようやく振り向いた。村の人間は影形も無くなっていたが、三人は無事だ。私は安堵の息を吐いて、彼らに近寄った。三つの影はゆっくり歩いてきていた。だが、何かがおかしいことに気がついた。サルメの後に続くサダルとヒメは二人寄り添っている。いや、違う。片方が、支えている。 支えているのは、ヒメだ。ヒメが、サダルが歩くのを助けていた。 「……サダル?」 「オウス……サダルが、サダルが」 ヒメは今にも泣き出しそうな顔をしていた。サダルは顔を上げない。いや、上げられない。おぼつかない足取りは、歩くのがやっとだということを示していた。 「サダルが……私を庇って」 サダルの顔は青白かった。彼は呆然と自分の足元を見ている。火傷をしたわけはないようだ。 私はすぐには気がつかなかったが、よく見れば彼の肩の辺りの服が赤く染まっていた。 「これは……矢?」 「村のものが……」 ヒメの声は震えていた。 サダルの肩には一寸ばかりの矢柄と鏃がすこしだけ見えていた。私は彼に近づき、躊躇せずその部分の服を破いて傷口を見た。血こそ大量には出ていないものの、その周りの皮膚は紫色に変色している。私にはその色が恐ろしく不吉に感じられた。 矢柄は折られたあとがある。きっとサダルが自分自身で引き抜こうとして折ってしまったのだ。 サダルはおもむろに顔を上げた。口を小さく動かして声を発したが、その声は私が寄りいっそう近づいてやっと聞き取れる程度だった。 「オウス……すみません」 「なぜ、なぜ謝る……サダル」 必死で私を見ようとしていたが、サダルの瞳は焦点が合っていなくてどこか遠くを見ているようだった。 私はどうしようもない恐怖を感じた。ますます血の気をなくすサダルの額に汗が幾筋も流れていたが、それは熱さの所為ではないことは容易にわかる。ただの矢ではない。これは、毒矢だ。 私の頭は上手く回っていなかった。彼の生気をなくした顔色と、肩の傷口から広がる赤紫の色がどうしようもなく私を怯えさせた。 サダルが。サダルが連れ去られる。 なんと言葉を発していいのかわからず、サダルを頼りなく支えて、ただ呼吸ばかりをする私の横をサルメが横切った。彼は、私の腕を通り抜けて倒れこみそうだったサダルをしっかりと支えた。 「サダル、サダル……大丈夫だ。よくやった、ありがとう」 「サルメ……私は」 「……サダル、大丈夫。大丈夫だよ」 「…………」 サダルは安心したようにサルメに身を預けた。あやす様に、サダルの背中を優しく撫でると、サルメはそのまま彼を草地に横たえた。慣れた手つきで器用に鏃を抜いて、傷口に口付ける。サダルは一瞬目を見開いた。サルメは何度かそうして毒を吸い出した。ヒメは胸の前で手を組み、祈るような表情で彼らを見守っていた。私はその祈りが届いて欲しい、と他人事のように願った。 私はいつだって自らの力で危機を乗り越えてきた。今までの旅でも、道案内はサルメとサダルだったが、戦闘の際に機転を利かせて彼らを先導するのは私だった。私は大いに頼りにされていた。 だが、今はどうだろう。サダルの命が危険だというのに、私は馬鹿みたいに突っ立っている。 サルメに支えられてサダルが起き上がった。サダルの腕を自分の首に回すと、サルメは私をじっと見た。 その光景と、苦手な視線に、私はすぐさまその場から消え去りたくなった。だがふと考えればそれが指示を仰ぐ視線だということにようやく気付いた。 「とにかく……一番近い村に、すぐに行こう。待て、今、地図を……」 私にはそれだけ言うのがやっとだった。地図をどこにしまったか忘れてしまい、取り出すのに時間がかかった。指が微かに震えて上手く開けない。そんな私を察知して、ヒメが地図を寄越すように目で合図をした。私は彼女に任せた。 「ここから北へ。集落があります」 「わかった……」 私は息を吸って吐くという動作にすら非常に疲れてしまった。心臓が喉元までせりあがってくる感覚がある。 断崖絶壁の前に立っている気分だった。風はない。誰も私の背中を押しはしない。だが、底の見えない恐怖は、確実に私の目の前にある。 これではいけない。余計にヒメに気を使わせてしまう。私は顔を見られないよう先頭をきって歩き出した。 きっと今の私は恐ろしく弱い顔をしている。